高慢と偏見

日々のあれやこれやに首を突っ込んでは叱られるブログ

「ダウンタウン浜田雅功のエディマーフィーのモノマネは黒人差別」問題を整理する

  年末年始の高齢番組「ダウンタウンガキの使いやあらへんで 絶対に笑ってはいけない〜」シリーズの最新作「絶対に笑ってはいけない」が国際社会から厳しい視線を集めている。今回は日本国内でも大きな議論を集めたこの問題について、状況を整理して論点を浮かび上がらせたい。
(本記事中では人物名が出るが、基本的に敬称略とさせていただく)
 

事の経緯を振り返る

 問題となったのは、番組内でダウンタウン浜田雅功エディ・マーフィーの扮装をして登場したシーン。この際に浜田が顔を黒塗りにしていたことが黒人差別にあたるとして、黒人作家ベイ・マクニールがツイッター上で番組のキャプチャ画像つきで非難のコメントを発信したことが発端だった。
f:id:sellotape-a87:20180105131506j:plain
●番組内で、黒塗りの扮装をするダウンタウン浜田雅功。番組内では「エディ・マーフィービバリーヒルズ・コップ)のモノマネ」という扱いであった。
 

 

 
マクニールの非難コメントは以下の通りだ。ブラックフェイスとは「黒人を演じるために行う黒塗り(およびそのパフォーマンス)」のことである。

ブラックフェイス - Wikipedia

 

 

 

 要するに、黒塗りメイクはエンターテイメントではなく黒人差別だと非難しているわけだ。
 
 
 しかし、日本人からすれば、こうした非難に違和感を抱くというのが本音ではないだろうか? 実際、このコメントが日本人の目にも触れるようになると、その違和感を反論として言葉にあらわす日本人のコメントが数多く見られた。
 
 その論旨はさまざまだが、一番多く見られる反論が「これは差別の文脈に属するものではない」というものだ。白人社会における黒人差別の文化を共有してこなかった日本人にとって、(文脈から言って)黒人の扮装には「黒人有名人のモノマネ」以上の意味がないという反論である。
 
 こうした反論に従えば、日本人にとって今回の黒塗りも視覚的にわかりやすい身体的特徴を模したにすぎないということになる。
エディ・マーフィーのモノマネで顔を黒く塗る行為は、明石家さんまのモノマネ芸人が出っ歯の入れ歯をしたり、タモリのモノマネ芸人がサングラスをつけたり、ドナルド・トランプのモノマネ芸人が金髪のカツラにつけ鼻をするのと何ら意図として変わらないということだろう。
 
 しかし、こうした反論に対して、前述のマクニールはハフィントンポストのインタビューの中でこう見解を示している。
 

多くの日本人は、日本人が顔を黒く塗ったとしても、日本にはアメリカの人種差別の文脈や歴史がないので、問題ない、害がないのだと言うでしょう。

しかし、実はアメリカの歴史とは別に、日本でもブラックフェイスの歴史はありました

引用:「笑ってはいけない」浜田の黒塗りメイクが物議 黒人作家が語った不安

 

 同記事で彼は1854年(江戸・幕末)に横浜港に来航したペリー提督が、ミンストレルショー(アメリカの黒塗りした白人および黒人によるショー)を日本人向けに披露したことを日本におけるブラックフェイスの始まりとして挙げ、その後、コメディアンの榎本健一やミュージシャンのシャネルズらに引き継がれていったと分析している。

 

ガキ使における「黒塗り」の文脈

 ここで、あらためて論点を整理していきたいのだが、実はこの問題はマクニールとそれに反論する日本人との間にいささか論点の乖離がある。
 
日本人が主に論点としているのは、ガキ使における黒塗りが本当に黒人差別の文脈に属しているのかという点であろう。つまり、欧米社会における黒人差別の文脈で、日本における「黒塗り」を糾弾することは暴論ではないか? という違和感を日本人は感じている。
 
 マクニールはミンストレル・ショーが幕末期の日本で披露されたことをもとに、「日本におけるブラックフェイスも欧米の差別の系譜に属しており、文脈を共有する」と主張しているが、まだ黒人はおろか白人を含む異人種そのものが珍しかった幕末の日本人にどこまでその文脈が理解され、引き継がれたかは検証が必要だろう。
つまり、ブラックフェイスの様式を模倣して演じたことは事実であっても、それはアメリカにおける黒人差別の文脈までも引き継いだこととイコールではないというわけだ。実際、これは言い逃れではなく、演者がどこまで意識していたかはともかくとして、少なくとも受け手である視聴者・観客にはその文脈が共有されていなかったという主張は、日本人の実感にはより近いものだろうと思う。
 
 では、ガキの使い~で浜田雅功はどのような文脈で、「黒塗り」を行ったのか。シリーズを通して観ている日本人にとってはそれを答えることはそう難しいことではない。
それは単純に「違和感の笑い」ということ以上でも以下でもない。
 浜田雅功による紛争が行われたのは、同番組の冒頭でお約束となった「衣装替え」の際のことだ。この衣装替えでは、その時々のテーマに合わせた衣装に出演者たちが着替えさせられていくのだが、毎度、浜田のみが他のメンバーとは明らかに違う格好をさせられるのがお決まりになっている。

f:id:sellotape-a87:20180105175333j:plain

f:id:sellotape-a87:20180105175346j:plain

 ●過去のシリーズでは、女装をさせられていた浜田雅功。出演者のなかで浜田のみ扮装の衣装を用意される、というのは番組の定番フォーマットであった。
 昨年までは浜田のみが女装させられるのがオチになっていたが、今回は「エディ・マーフィーへの扮装」がオチに選ばれた。マクニールは「黒人キャラが欲しいなら日本語を話す黒人を雇え」と言うが、そういうことではないだろう。べつに番組は黒人キャラを欲しがっていたわけではなく、あくまで浜田にいつもとは明らかに違って見える扮装をさせたいというのがメインだったのではないか。この行為の良い悪い(適切、不適切)はひとまず脇に置くとして、ガキ使の黒塗りはその程度の意図で行われたことに過ぎないのではなかろうかと思う。その文脈から言えば、エディ・マーフィーが選ばれたのもせいぜい発想の意外性ぐらいの理由で、それを除けば浜田が着ているのはミニスカポリスでも、ロボコップでも何でもよかったのである。そういう意味で、黒人を笑いものにしようとした意図を日本人の我々は感じなかったのではないか。
 
だが、こうした作り手側の「悪意の不在」は、今回の行為をエクスキューズするだろうか?
少なくとも、黒人コミュニティはこんな言い訳を受け入れないだろう。 
それは単なる感情的な言いがかりや難癖の類なのであろうか?
 

他人の属性を笑いの道具にするのは許されるのか?

 ここで、そもそも論に立ち返ろう。

 マクニールがそもそも最初に示した不快感というのは、本当にこうした欧米の差別の文脈云々のことなのだろうか。日本が幕末期にミンストレルショーを見ていたかどうかが問題なのだろうか。もしも、仮に日本人がミンストレルショーを一回も見たことがなければ、彼らはそれで不快感を感じることはないのか。そんなわけがないだろう。

 

 マクニールは前出のハフィントンポストのインタビューで、日本でブラックフェイスを目にした時の感覚をこう語っている(便宜上、発言の一部分のみを抜粋して引用した。正確なニュアンスの方では日本人への理解を口にしてもいるので、是非元の記事も確認してもらいたい)。

私は、日本のテレビコメディーや音楽でブラックフェイスを見るたび、見下されたような、馬鹿にされたような、そして表面だけを見られて、人間性を否定されているような気分になります。

私の肌の色が、私自身の人間性が、芝居の小道具、あるいは脚本にされたかのように感じるのです。

 引用:「笑ってはいけない」浜田の黒塗りメイクが物議 黒人作家が語った不安

 

 つまり、彼は黒人の「肌が黒い」という記号的要素だけを拾い合げて、それを模倣しジョークのオチとすることに耐えがたい屈辱を感じたというのである。これこそが黒人コミュニティの最大の論点であり、我々日本人が真摯に考え直さねばならない部分ではないか。

 

 ここで我々が思い出すべきものがある。映画『ティファニーで朝食を』に登場する日系アメリカ人・ユニオシのことだ。

 

f:id:sellotape-a87:20180106125634j:plain

f:id:sellotape-a87:20180106125903j:plain

●映画『ティファニーで朝食』に登場する日系アメリカ人のキャラクター・ユニオシ。

白人俳優ミッキー・ルーニーが演じたこのキャラクターは、黒ぶちメガネに出っ歯、低身長と当時、アメリカ社会に蔓延していた日本人に対する悪意あるステレオタイプなイメージを投影したものだった。

f:id:sellotape-a87:20180106130451j:plain

f:id:sellotape-a87:20180106130523j:plain

●第2次世界大戦中にアメリカで描かれた日本人像。当時敵国だった日本を悪役とするため、見た目を誇張してあげつらう侮蔑的なものだった。

 

これを見て、日本人として何も感じないという人はそう多くはないのではないか?

まるで自分たちに悪意を向けられているような、馬鹿にされているような、そんな屈辱感を感じるのが自然である。その感覚こそが、今回の問題でマクニールをはじめ黒人コミュニティが感じている不快感そのものではないか。

 

もちろん、『ティファニーで朝食』で描かれる日本人像は、そのまま戦中アメリカで盛んに描かれた差別的日本人像を背景にしているので、「悪意」を感じることは不当ではない。今回の問題とはこれも若干に文脈の異なるケースではある。

 

だが、ここでもそもそも論に立ち戻りたい。

我々は「戦時中の差別的日本描写」と全く同じだから、ユニオシの描写に不快感を抱くのだろうか?

 

 たとえば、歴史的経緯のわからない日本人の子供に「アメリカ人が思う日本人だよ」と言って見せたとして、彼らは「わぁ、素敵」となるだろうか? そんなわけがないだろう。これを見れば、日本人なら誰だって思う。「アメリカ人は、日本人が嫌いなのか? 馬鹿にしているのか?」 それくらい侮蔑的で受け入れがたい画だと感じるのだ。つまり、そもそもこの日本人描写は「ステレオタイプに満ちていて、侮蔑的に感じる」から、受け入れがたいものなのである。

 

これは何も黒人や日本人にかぎった話ではない。

過去にはANAのCMで、日本人がつけ鼻に金髪の扮装をしたことで白人コミュニティから「差別的だ」として非難を受けたことがある。

 

f:id:sellotape-a87:20180106142902j:plain

 

話を今回の黒塗り問題に戻そう。

黒人コミュニティは、浜田雅功のブラックフェイスを見て、直感的に耐えがたい屈辱を感じたのである。これは文脈の問題以前の話である。

 

 ブラックフェイスを、単なるおちゃらけやジョークに使っていいのかどうか。まず、ここから日本人は考え直す必要があるのではないか。